2月4日(土)20時放送のラジオ番組J-WAVE「RAKUMACHI BIZ8」にポケモン代表取締役社長の石原恒和が出演します。『赤・緑』から『ポケモンGO』まで、ナビゲーターの青木裕子さんと様々なトークをします。是非ご視聴下さい! https://t.co/FyAFIVvSPW pic.twitter.com/xQhbEppTM6— ポケモン公式ツイッター (@Pokemon_cojp) 2017年2月3日
石原恒和(いしはらつねかず)氏のインタビューは20:15過ぎに始まりました。
20:16
・世代を超えて、遊んでもらっている。50代以上が子供や孫と遊んでいて、会話ができている。
・初期のポケモンは、シンプルなわかり易さがある。
また、個々には、わざが違ったり、大きさが違ったり、個々に違うのが大切。
・クリエイターとしては、ポケモンのタッチポイントが多いことを意識して、映画館でポケモンが見られる、バトルができる、交換ができる、などに気を配っている。
・日本では、1996年にゲーム。1997年にテレビアニメができ、小学館の雑誌・コロコロコミックでも知られていたため、アニメ以降、映画、カードゲーム、と広がってきた。
・世界的に見ると、1998~1999年にアメリカでローカライズされ、アニメが始まり、当時、ポケフルー(ポケモンのインフルエンザ?)だと言われ、日本の3倍の売り上げだった。自分は日本だけを考えていたが、任天堂の山内社長が、是非、アメリカでやりたいと言っていたために始まった。日本ではひとつひとつやってきたが、アメリカでは、ゲーム・アニメ・映画などの武器があったため、それらを考えて、順番を考えて展開することができた。
20:23
・自分は、ポケモンに出会う前は、ポケモン以外のゲームをプロデュースしてきた。
ポケモンが、他のゲームと違うのは、開発に5~6年掛かったということ。
特に、ゲームボーイのポケモンで苦労したのは、ポケモンを友達と「交換する」仕組み。
当時の通信用のケーブルは、ON-OFFケーブルのみだったので、「こういうデータを送ったら、交換できる」という仕組み(通信手順)を決めるのがすごく大変だった。
これは、当時開発していたGame Freakのメンバーのこだわりが強かった面もあるけれど、そこが大事なところでもあった。ゲームボーイ自体が発売されてから、5年ぐらいたってしまい、このままではハードが販売されなくなるというところまで行って発表した。
そもそも、コンピュータにとって、「交換」は、一番得意としないところ。コンピュータが得意なのは、「コピー」であるが、交換して、あげた人のポケモンは消去しないといけないのだが、これをやるのが大変だった。当時、交換直後にケーブルを抜くと、双方を残すことができるみたいな裏技も出ていた。
・自分にとっての転機は、株式会社ポケモンを作ったとき。1998年に、全世界でポケモンが大ブームになり、さまざまな会社にライセンスを与えたが、1500社にしか与えていないのに、3000社からポケモングッズが販売されてしまい、海賊版が多かった。このままではブランドイメージがダメになるとの危機感を感じ、権利を集め、ポケモンをきちんと育てるために会社を作った。
・株式会社ポケモンにしたら、それ以外のものを扱わないようになったため、ある意味での不退転の覚悟であり、ターニングポイントであった。不安もあったが、ポケモンの強さを中心として、長いブランドに育てられると思った。
20:30
・今後ポケモンを拡大するのに大事なのは、周囲の人にプレイしてもらえるようになるかということ。
・自分にとっての、遊びとは何か?と問われると、人によっては、遊びの反対は仕事とか、子供なら勉強とか。また、本気度とか真剣度といったものもあるかも知れないが、自分の中では定義されていない。仕事は遊びであるべきで、勉強は遊びとしてやった方がいいし、遊びも真剣にやってみた方が良いし、みんなが考えるものの反対にあるものが遊び、みたいに思う。
・自分は、ゲームとは、人生を豊かにするべきものであると思っている。また、ポケモンは現実世界と仮想世界を豊かにするという社是になっている。
・ポケモンは交換こそが、一番大事にしている仕組み。交換するためには、お互いが交換したいと思わないといけない。これが強いコミュニケーションを生み出している。
・ゲーム開発のために大切にしていることは、これまでに縛られないこと。過去のゲームから学ばないこと。外にあるものから活用すること。
・これからのポケモンの遊びは、益々拡張していくし、ポケモンGOでも、サンムーンでも、どこからでもつながっていけるようにしたい。
20:37 終了
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